僕の場合、外に出たついでや移動中など家の外で本を読むことが多い。だから小説を読みたいときは文庫を選ぶ。ハードカバーの重たい本は持ち歩くのが大変だ。でもこれだけ本屋に平積みされたら読みたくなるでしょ、「1Q84」。
というわけで読んでみた。
ちなみに、僕は村上春樹作品を読んだのは大学生の頃。何冊か読んだが、彼の作品の良さを理解できないまま。購入の際、そういえば半年くらい前「コインロッカー・ベイビーズ」を読んだなぁ、何てことも考えていたが、おっとあれは龍さんでした。
そんな感じなので、巨人の山口投手に対する阪神平野選手のようにくるくる回っているだけの、的を得ていない感想文かもしれません...
1.この小説のテーマは?
BOOK1から3まで概ね4時間/冊、何でもさっさと読んでしまう僕にしては結構じっくり読んだ方。さすが面白い。ほどほどにわかりやすい伏線、少しずつシンクロしていく青豆・天吾のストーリー、そして全てを理解できないモヤモヤした読後感。これは中毒性がある。
でも釈然としないなぁ、他の人はどう読んだかと思い、「『1Q84』をどう読むか」(河出書房新社)もチェックしてみたが...まあ、読み方は人それぞれ。人の数だけ書評はある。
それにしても、これだけ誰もが好き勝手に書評し、それらを集めてもこの辺が作品のテーマとしての「落とし所」というのが見えない。それはなぜか。2つばかり考えてみる。
1)作品は作者のメッセージを表現するメディアである。それが読者にうまく伝わっていないのは、村上春樹の力不足。
⇒まさかねぇ。じゃあどうするの、という話まで進められないのでこの説はパス。
2)そもそも作品のテーマなんて無い。
⇒ダ・ヴィンチの絵画を思い出した。彼は絵画で何かを伝えるのではなく、物の質感、光の性質、筋肉の動き...世界のあれこれに関する興味・知識を整理して、塗料を使った「世界」を構築したのである。
それと同様、村上春樹の小説は、何かを伝えるためのものでない。彼は彼の「世界」を活字によって構築しようとしているのだ。
そう考えると、村上春樹作品の最大の特徴である「比喩」、何のためにこの作業を行っているかということについても理解できる。それは活字の「世界」をどれだけリアルなものとできるか、という挑戦の現れだと思う。欲望、セックス、暴力の描写が多い点についても、「世界」の現実性を高めるための手法ではないか。それにしても彼のイメージする「世界」は結構ドロドロしている。現実世界も内面はこんなものかもしれないが。
ここで、これまでの村上春樹作品で現実性に欠けていた部分がある。それは「人物」。茂木健一郎氏が「村上春樹の鼻毛問題」(唯一の欠点、という意味)と呼び、作家のご都合主義としていたように、登場人物は皆モテる。青豆・天吾も現実世界にはそういないタイプだと思う。でも「1Q84」ではまるで2アウト満塁、一打逆転サヨナラの場面で代打金本を告げる真弓監督のように満を持して「鼻毛」を出してきた。福助頭のちんちくりん「牛河」である。特異な外見でかなり損をしている。ただしその行動は優秀な実務家。自分の役割に対して正面から取り組んでいる。頑張れ牛河、そう思って読んでいたが...
このように、村上春樹の小説はいろいろなアイデアを投入して書籍の中に新たな「世界」を作り出している。そして作者の役割はここまで。この後は、現実世界に対する僕らと同じように、そして「聖書」を読むように、それぞれの思想・経験の範囲内で小説世界を理解する。
現代文の試験なんかで作者の言いたいことが問われる場合が多いと思うが、そんなの出題者が勝手に決めた話であり、それが真実というわけではない。
実際は「作者の意図」という一つ(たぶん)の答えを探そうという構えを見せつつ、結局は「自分は何を感じたか、考えたか」を言葉にしていく、それでいいし、それしかできない。
2.僕はどう読んだか
僕が1Q84をどう読んだかというと、「男と女が大人になる物語」としてである。「男性」「女性」という未完成で純粋で邪悪な存在が、「家族」を形成することにより清濁併せ飲む「大人」になっていくプロセスが見えた。
この世界で、「男性」と「女性」は明確なキャラクタを与えられる。青豆・天吾だけではない。登場人物は皆同様のキャラクタを持っている。それについては物語の冒頭にある。
まずは「女性」のキャラクタ。
第1章(青豆):「あなたたちはそこに縛りつけられたっきり、どこにも行けない。ろくに前にも進めないし、かといって後ろにも下がれない。でも私はそうじゃない。私にはすませなくてはならない仕事がある。果たすべき使命がある。だから私は先に進めせてもらう。」
第3章(青豆):「私は移動する。ゆえに私はある。」
この世界の「女性」は「移動する」。青豆もとにかく動くし、天吾の母親も安達看護婦も動く。女性(母親)の持つ「帰るべき場所」を構築するイメージは無い。この特性が様々な事態を打開するきっかけになるのだが、それだけに落ち着かない、不安定さを持っている。
一方、「男性」のキャラクタ。
第2章(天吾):「これを見ろ、と彼らは言う。これだけを見ろ、と彼らは言う。お前はここにあり、お前はここよりほかに行けないのだ。」
「男性」は逆に動かない。「自分に与えられた役割」に対して全力を尽くそうとする。
天吾もそう、牛河もそうだ。あの教祖様なんて「物理的に動かない」。
この物語には「ゲイ」のタマルが出てくる。これは青豆が強大な組織と対決しながら、成長していく為には必要な役割である。これが男性だったらそこで恋に落ちてしまうだろうし、女性だったらビューティペアになってしまう(誰が主役かわからないってこと)。
不安定な「男性」「女性」...それは「子供(小人)」である。小人=リトルピープルと無理やり接続させてしまうと(そんな安直な、とも思うが)、子供(小人)であることの純粋さ、不安定さは時に残酷な行動の原動力にもなるし、成長していく子供が持つ性の衝動は新たな生命の源(空気さなぎの作成)にもなる。
ただしそれはいつまでも続けるものではない。新たな生命が誕生した段階で、「男性」「女性」は成長しなければならない。今度は子供を育てるために(お、最近ニュースになっている幼児虐待の話とシンクロしているね)。
「大人」になること、それは「小人」の特性に打ち克つこと。BOOK3の最終章では、登場人物はそうした姿を見せている。タイガーをあなたの車に。
最後に、BOOK4では次のような展開を「予想」。
・登場人物が「大人」になる戦い。「男性」の安定傾向、「女性」の移動(不安定)傾向が上手く補い合い、事態を打開する(「事態」は別に何でもいい)。リトルピープルと登場人物の関係性は消滅する(世界から消滅はしない)。
・天吾はまだ彼の役割を果たしていない。以下参照。
第2章(天吾):「こいつは天吾くんが書き直すべき話なんだって」 ※小松が天吾に言った言葉
3.最後に
この小説は「受けの広い」小説だ。青豆天吾の純愛小説というさらっとした読み方でもいいし、所々に仕掛けられた言葉のネットワークを探るミステリー系の読み方、作者の哲学を探る読み方、そして上記のように好き勝手に語ることだってできる。爆発的に売れることを前提として書かれた小説である。文中にも書いたように、「聖書」を意識しているのだろうか。
というわけで読んでみた。
ちなみに、僕は村上春樹作品を読んだのは大学生の頃。何冊か読んだが、彼の作品の良さを理解できないまま。購入の際、そういえば半年くらい前「コインロッカー・ベイビーズ」を読んだなぁ、何てことも考えていたが、おっとあれは龍さんでした。
そんな感じなので、巨人の山口投手に対する阪神平野選手のようにくるくる回っているだけの、的を得ていない感想文かもしれません...
1.この小説のテーマは?
BOOK1から3まで概ね4時間/冊、何でもさっさと読んでしまう僕にしては結構じっくり読んだ方。さすが面白い。ほどほどにわかりやすい伏線、少しずつシンクロしていく青豆・天吾のストーリー、そして全てを理解できないモヤモヤした読後感。これは中毒性がある。
でも釈然としないなぁ、他の人はどう読んだかと思い、「『1Q84』をどう読むか」(河出書房新社)もチェックしてみたが...まあ、読み方は人それぞれ。人の数だけ書評はある。
それにしても、これだけ誰もが好き勝手に書評し、それらを集めてもこの辺が作品のテーマとしての「落とし所」というのが見えない。それはなぜか。2つばかり考えてみる。
1)作品は作者のメッセージを表現するメディアである。それが読者にうまく伝わっていないのは、村上春樹の力不足。
⇒まさかねぇ。じゃあどうするの、という話まで進められないのでこの説はパス。
2)そもそも作品のテーマなんて無い。
⇒ダ・ヴィンチの絵画を思い出した。彼は絵画で何かを伝えるのではなく、物の質感、光の性質、筋肉の動き...世界のあれこれに関する興味・知識を整理して、塗料を使った「世界」を構築したのである。
それと同様、村上春樹の小説は、何かを伝えるためのものでない。彼は彼の「世界」を活字によって構築しようとしているのだ。
そう考えると、村上春樹作品の最大の特徴である「比喩」、何のためにこの作業を行っているかということについても理解できる。それは活字の「世界」をどれだけリアルなものとできるか、という挑戦の現れだと思う。欲望、セックス、暴力の描写が多い点についても、「世界」の現実性を高めるための手法ではないか。それにしても彼のイメージする「世界」は結構ドロドロしている。現実世界も内面はこんなものかもしれないが。
ここで、これまでの村上春樹作品で現実性に欠けていた部分がある。それは「人物」。茂木健一郎氏が「村上春樹の鼻毛問題」(唯一の欠点、という意味)と呼び、作家のご都合主義としていたように、登場人物は皆モテる。青豆・天吾も現実世界にはそういないタイプだと思う。でも「1Q84」ではまるで2アウト満塁、一打逆転サヨナラの場面で代打金本を告げる真弓監督のように満を持して「鼻毛」を出してきた。福助頭のちんちくりん「牛河」である。特異な外見でかなり損をしている。ただしその行動は優秀な実務家。自分の役割に対して正面から取り組んでいる。頑張れ牛河、そう思って読んでいたが...
このように、村上春樹の小説はいろいろなアイデアを投入して書籍の中に新たな「世界」を作り出している。そして作者の役割はここまで。この後は、現実世界に対する僕らと同じように、そして「聖書」を読むように、それぞれの思想・経験の範囲内で小説世界を理解する。
現代文の試験なんかで作者の言いたいことが問われる場合が多いと思うが、そんなの出題者が勝手に決めた話であり、それが真実というわけではない。
実際は「作者の意図」という一つ(たぶん)の答えを探そうという構えを見せつつ、結局は「自分は何を感じたか、考えたか」を言葉にしていく、それでいいし、それしかできない。
2.僕はどう読んだか
僕が1Q84をどう読んだかというと、「男と女が大人になる物語」としてである。「男性」「女性」という未完成で純粋で邪悪な存在が、「家族」を形成することにより清濁併せ飲む「大人」になっていくプロセスが見えた。
この世界で、「男性」と「女性」は明確なキャラクタを与えられる。青豆・天吾だけではない。登場人物は皆同様のキャラクタを持っている。それについては物語の冒頭にある。
まずは「女性」のキャラクタ。
第1章(青豆):「あなたたちはそこに縛りつけられたっきり、どこにも行けない。ろくに前にも進めないし、かといって後ろにも下がれない。でも私はそうじゃない。私にはすませなくてはならない仕事がある。果たすべき使命がある。だから私は先に進めせてもらう。」
第3章(青豆):「私は移動する。ゆえに私はある。」
この世界の「女性」は「移動する」。青豆もとにかく動くし、天吾の母親も安達看護婦も動く。女性(母親)の持つ「帰るべき場所」を構築するイメージは無い。この特性が様々な事態を打開するきっかけになるのだが、それだけに落ち着かない、不安定さを持っている。
一方、「男性」のキャラクタ。
第2章(天吾):「これを見ろ、と彼らは言う。これだけを見ろ、と彼らは言う。お前はここにあり、お前はここよりほかに行けないのだ。」
「男性」は逆に動かない。「自分に与えられた役割」に対して全力を尽くそうとする。
天吾もそう、牛河もそうだ。あの教祖様なんて「物理的に動かない」。
この物語には「ゲイ」のタマルが出てくる。これは青豆が強大な組織と対決しながら、成長していく為には必要な役割である。これが男性だったらそこで恋に落ちてしまうだろうし、女性だったらビューティペアになってしまう(誰が主役かわからないってこと)。
不安定な「男性」「女性」...それは「子供(小人)」である。小人=リトルピープルと無理やり接続させてしまうと(そんな安直な、とも思うが)、子供(小人)であることの純粋さ、不安定さは時に残酷な行動の原動力にもなるし、成長していく子供が持つ性の衝動は新たな生命の源(空気さなぎの作成)にもなる。
ただしそれはいつまでも続けるものではない。新たな生命が誕生した段階で、「男性」「女性」は成長しなければならない。今度は子供を育てるために(お、最近ニュースになっている幼児虐待の話とシンクロしているね)。
「大人」になること、それは「小人」の特性に打ち克つこと。BOOK3の最終章では、登場人物はそうした姿を見せている。タイガーをあなたの車に。
最後に、BOOK4では次のような展開を「予想」。
・登場人物が「大人」になる戦い。「男性」の安定傾向、「女性」の移動(不安定)傾向が上手く補い合い、事態を打開する(「事態」は別に何でもいい)。リトルピープルと登場人物の関係性は消滅する(世界から消滅はしない)。
・天吾はまだ彼の役割を果たしていない。以下参照。
第2章(天吾):「こいつは天吾くんが書き直すべき話なんだって」 ※小松が天吾に言った言葉
3.最後に
この小説は「受けの広い」小説だ。青豆天吾の純愛小説というさらっとした読み方でもいいし、所々に仕掛けられた言葉のネットワークを探るミステリー系の読み方、作者の哲学を探る読み方、そして上記のように好き勝手に語ることだってできる。爆発的に売れることを前提として書かれた小説である。文中にも書いたように、「聖書」を意識しているのだろうか。

