2010年9月アーカイブ

正しい選択とは?

以前、正しい判断を行うためには先入観を排除する、という文章を書いた。しかし、これを禅の考え方でみると、判断を行っていること自体が妄想に取りつかれていることになる。禅が目指す悟りの境地とは、「明鏡止水」、ありのままを心に映すのみ。(たぶん)

とはいえ、日常生活においては他人と上手く関係性を保ちつつ、自己利益もある程度確保していかねばならない。そのためには眼の前にあるもの全てを取得することはできないし、何も取得しないわけにもいかない。そうした場合に、「じゃあ私はこれをもらいます」と判断する必要がある。「判断」は我々が生きるための「方便」なのだ。

判断はあくまでも日常を生きるための「方便」なのだから、正しい方法というのは存在しない。全て決めごとにすぎない。だから、人によって異なる場合もある。

判断の一つ、「選択」に関するTEDのコンテンツが面白かった。選択に関する3つの思い込みについて述べている。

シーナ・ アイアンガ-: 選択術
http://www.ted.com/talks/lang/jpn/sheena_iyengar_on_the_art_of_choosing.html



(以下、上記コンテンツ中、日本語字幕を要約した)

米国人は選択術の頂点を極めている、全ての人間は先天的に選択肢を求めるものだと思っているが、それは思い込み。異なる国や文化では「選択」の考え方が異なる場合がある。

一つ目の思い込み:選択が自分に影響をもたらすなら、自分が選択するべきだ。己の優先事項や利益を最大限反映させるには、自ら選択するしかない。

・・・白人系、アジア系それぞれの子供たちにパズルを解かせた場合、取り組むパズルや使うマーカーを誰が選ぶかで結果が異なった。白人系は自分で選択したパズルを解いたときが最も成績が良く、アジア系は母親が選択した場合の方が成績が良かった。

アジア系の場合、選択とは個性の明示や主張の手段だけでなく、信用し尊敬する人たちに選択を委ねることで、社会や調和を築こうとしているのだ。言い換えれば、自分自身の望みとは「大切な人を喜ばせる」ことなのである。

二つ目の思い込み:選択肢が多ければ多いほど最高の決断をする。

・・・ロシア人に7種類のソーダ(コーラ、スプライト等)を勧めたとき、一人が言った。
「どれでもいいです。全部炭酸飲料ですから」

人間は皆、選択に対して基本的なニーズ、欲望を持っている。しかし、誰もが同じ環境・度合いで選択を捉えているわけではない。複数の選択肢に違いを見出せない、比較するには選択肢が多すぎる...そんな時、選択という行為は困惑を生む場合がある。

三つ目の思い込み:選択肢を前に、決して背を向けてはならない。

・・・脳無酸素症の赤ちゃんの生命維持装置を外す決断、米国とフランスで状況が異なる。生命維持装置を外す時期を決定するのは、フランスの場合は医師、米国の場合は両親。
米国人の親は、その後も罪悪感や怒りにさいなまれる。しかし、その決断を医師に託すことは考えられないという。選択を放棄することは、今まで教わってきたことや、選択が持つ目的・力への信念に反するからである。

(要約終わり)

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選択・判断についてこれが正しい、というものは無い。ただ、いずれにしても結果に文句を言わない、という潔さ(潔いふりも含めて)は必要だろう。

アンチ・スマートシティ

日経ビジネス9/6号特集は2本、スマートシティ、観光開国と両A面とも言える興味深い内容。

低環境負荷型の都市「スマートシティ」、世界で多くのモデル都市が構築されている。先日の「灼熱アジア」で取り上げられていたマスダール・シティもこの一つ。もちろん中国でも現在100以上のモデル都市が計画されている。
これらのモデル都市は、新興国における「都市創造産業」の足がかりであり、世界の建設・設備等インフラ関連企業がしのぎを削る。

一般的な考え方なら、世界注目の都市創造産業、日本もここで存在感を!なるのだが、懸念されることが2点ある。

一つは「都市機能という社会資本がビジネスの論理によって形成される」という点。

このことによる弊害は未知数、だがなんとなく想像できる。まずは「都市インフラの特定企業による抱え込み」。都市機能は社会的要請・老朽化・自然災害等により継続的にメンテナンス・カスタマイズ・リニューアルされることが必要である。
しかし、スマートシティは高機能の設備機器・ITが中心となって構築され、そのコア部分は設置した企業によりブラックボックス化される。このため、将来的にその機能に手を加えたい場合、その時点で適切な技術・価格競争力を備えた企業が「選択されない」可能性が高い。都市機能が未来永劫、特定の企業に独占されるのだ。サービス水準が企業の経営状況に左右される、ということはないのだろうか。

さらに、都市機能という社会資本がビジネスロジック中心で形成される点に不安を感じる。日本における例ではあるが、社会資本はそれに携わる人々の「献身」により支えられてきた部分は少なくない(ビジネスロジックがそれを加速、あるいはミスリードしてきた部分もある)。

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やっぱりいい仕事をしておくのがいい。おれのやった仕事が少々の水でくずれるものかという自信が、雨のふるときにはわいてくるものだ。結局いい仕事をしておけば、それは自分ばかりでなく、後からくるものもその気持ちをうけついでくれるものだ。

宮本はそこのような職人たちを「物言わぬ人々」と形容している。生活のために金がほしくて働くのだが、ここに息づいている労働倫理は、ただ金のだけのためでもなく、他者の評価のためだけでもなく、自らが自らを叱咤し命令し、納得するような仕事観からでてくるものだ。

(中略)この不合理な労働エートスは、有能な職人だけにあったわけではない。それがたとえ単純労働であっても、労働を金銭や他者の評価と引き換えるためのものではない、自己活動そのものとして受け止める習慣が身についていた。

(「移行期的混乱」平川克美 筑摩書房 P74)

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社会資本は、昔なら地元の名士が私財を投げ打ち、近代では土木技術者の昼夜問わない働きなどがそれらを下支えしてきたものである。ビジネスロジックではない、公益優先の精神、そして上記のような職人気質により社会資本の質は護られてきた。
ビジネスロジック中心で動く企業に、継続的な社会資本の運営管理をどこまで信託できるか。
これらについては、政府の監理が実際どこまで届くのか、という点が重要である。

もう一つは「都市形成のプロセスが既存の都市とは全く異なる」という点。

既存の都市は、通常、地形的・気候的要因や歴史、住民一人ひとりの営みの蓄積により徐々に形成され変化を続けている。しかし、スマートシティは、ある理念で形成された既成の都市に人が収容されるという全く逆のプロセスをとる。

着目したいのはサキセア・サッセンによる批評コメント。2/3ページとスペースは小さいが、特集全体を引き締めている重要な部分である。

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グローバルシティに共通しているのは、何かを失い続けていると同時に、新しい何かを受け入れ続けていることにある。貧困や犯罪といった裏の現実も併せ持つ。

 ありとあらゆるものが揃っているが、不完全であり、無駄や矛盾、危険も多い。そうした巨大さと乱雑さと偶然の力によって都市の活力と「ナレッジキャピタル(知的資本)」と呼ぶべき価値が生み出されてくる。それがシティネス。

 最新の技術と莫大な資本を投入すれば機能的なスマートシティを建設できる。だが、そこにシティネスを吹き込むことは難しい。シティネスは、都市の歴史と、中央集権的に管理することができない複雑性の中から生まれてくるもので、技術やビルや資本だけでは材料不足なのである。


(日経ビジネス2010.09.06号 P41)

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スマートシティが提供するのは衣・食・住の機能「のみ」と考えた方がよいと思う。我々の人間的成長の触媒となる風土、都市の雰囲気など、桑子敏雄氏の言葉を借りれば「空間の履歴」、これがスマーシティには無い。「何かが欠落した」都市なのである。そのことがそこに暮らす人々にどのような変化をもたらすか、これもわからない。

しかし、その「欠落した何か」を埋めるために、スマートシティの住民は「旅に出る」ことを好むようになるのではないかと僕は考える。スマートシティに欠落した「空間の履歴」を感じ、人間的成長の触媒とするために旅に出て、経験を積むことをステータスとするようになる。
その場合、「空間の履歴」が豊富な従来型都市・集落の価値は現在よりさらに高まることとなる。人々は、日常はスマートシティで生活し、休暇をとって従来型都市・集落で観光・滞在を楽しむ。そう考えると、日本の風土を活かした「観光産業」は今後も相当期待できるのでは?と考えてしまう。

都市創造産業、正直日本企業は下請けの一つとしての役割しか無いだろう。しかし一方、アンチ・スマートシティ(高環境負荷という意味では無い)として、日本の既存都市・集落に存在する「空間の履歴」を大切にする、そうした取り組みの意義は大きいのかもしれない。



あえて「国内公共」に固執しよう

日経コンストラクション9/10の特集は「『国内公共』に固執しない生き方」。
国内公共事業の規模縮小に伴い、「民間」「海外」事業にも展開していこうというものだ。
これについては異論は無い。長年積み重ねられたノウハウの水平展開、これからの時代では当然であり、積極的に取り組まねばならない(というより、もう実践に入っていないと遅い)課題である。

ただし、建設業に携わる技術者が考えるべきこと、僕は2つあると考えている。

ひとつは上記のような「企業・業界の生き残り戦略」、水平展開。
基本的には「これからお金が集まりそうなサークル」にエントリーし、そこで富を獲得しようというもの...GO WEST、さあ道を拓け、狩りの時間だ。

もうひとつ、大事なことがある。「建設技術者の社会的役割を果たす」ことだ。
これまで建設技術者が国内で果たしてきた役割は、「社会的共通資本」を造り、護ること。

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社会的共通資本の管理について、一つ重要な点にふれておく必要がある。社会的共通資本は、それぞれの分野における職業的専門家によって、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって管理、運営されるものであるということである。社会的共通資本の管理、運営は決して、政府によって規定された基準ないしはルール、あるいは市場的基準にしたがっておこなわれるものではない。この原則は、社会的共通資本の問題を考えるとき、基本的重要性をもつ。社会的共通資本の管理、運営は、フィデュシアリー(fiduciary)の原則にもとづいて、信託されているからである。
 社会的共通資本は、そこから生み出されるサービスが市民の基本的権利の充足にさいして、重要な役割を果たすものであって、社会にとってきわめて「大切な」ものである。このように「大切な」資産を預かって、その管理を委ねられるとき、それは、たんなる委託行為を超えて、フィデュシアリーな性格をもつ。社会的共通資本の管理を委ねられた機構は、あくまでも独立で、自立的な立場に立って、専門的知見にもとづき、職業的規律にしたがって行動し、市民に対して直接的に管理責任を負うものでなければならない。

宇沢弘文著「社会的共通資本」岩波新書P23

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建設技術者はこれまで、国民より社会的共通資本を「信託」されてきた。したがって、建設技術者はこれからも、日本の社会的共通資本を「護り続ける」という社会的責任が課せられていると思う。
しかも建設業界全体が必要以上に営利を求めた姿勢、それが公共事業をミスリードした面もある。その罪を償う必要がある。

企業の存続、業界の活力確保、そのためにも公共事業以外の分野にも展開すること自体は問題ない。しかしそれが国内公共事業を軽視することにつながってはならない。自分の畑が痩せた、だから隣の畑も耕す。それでも最後は自分の畑で立派な作物をつくらねば...農耕民族の矜持である。

「選択された側」には、人もお金も集中する。しかし「選択されなかった側」にもやるべきことは残っている。財政破綻下の公共事業...大胆な発想、パワフルな行動により「名誉ある撤退戦」を戦わねばならない。そして「成熟社会の社会共通資本」として着地させる必要がある。

Not-for-Profit、選択されなかった側、僕はその側に立つ。 
連日、民主党代表選の報道が続いている。別に毎日新しい展開が...ということでなく、コメンテータがそれなりのコメントを述べているだけ。おかげで、お塩被告ネタに押されているようにも見える。(平和ですね)

とにかく、報道の中心はおおむね政治・経済である。動きがあろうとなかろうと。
実際、政治・経済が自分の仕事・生活に「直結」している人はそう多くはないだろう。
それにもかかわらず、なぜ政治・経済なのか。
気にする人がいるからだ。

我々の政治参加の手段で基本的なものは選挙である。それも年に何度も無い。
はたして、我々はそこで投じる一票のために毎日報道をチェックしているのだろうか。次の投票をどうするか、そのために報道をチェックする人がそれだけいる?
だからといって、自分を取り巻く社会情勢を把握して、そのうえで自らがどう生きるかを思考する、ということもない。(本当は大事なことだけど)
それなら普段は自分の仕事に集中していた方が、社会的には有益のはずだ。

それでも僕らはなぜ政治・経済を気にするのか。あくまでも「話題」としてであると考える。その「話題」を用いて、ある野心を達成したいからである。

その「話題」は我々の日常生活で有効な武器になる。例えば、居酒屋で誰かがこれからの政局について明快に解説し、我々がそこに感心したところに「ところで次キャバクラ行かない?」と持ちかけられたら無条件に「おお、行こう」と言ってしまう。(そういえば30過ぎて位から全然行っていないなぁ)
「話題」は場を支配する為に必要なものである。銀座のホステスさんが政治・経済の動向を熟知しているのはなぜか...場を実効的に支配する為である(あくまでも勝手な推測です)。

つまり、我々が日常的に政治・経済を気にするのは、日常生活におけるコミュニケーションの場で、「話題」によって主導権を握りたい「ささやかな野心」(例えばキャバクラに行きたいとか、ホステスさんとの対等関係を保つとか)に起因しているのではないだろうか。

...例えが変でスマナイ。

政治・経済に関する報道は、平時はあくまでも「話題提供」のためのものである。そう考えると、報道が真実を伝えないのも、政治が不透明なのも理解できる。「話題」がわかりにくければわかりにくいほど、それを上手く解説できた者が強力に場を支配することができる。だから人々はますます報道に気を配るようになる、というループ構造が形成されているのだっ!

それなら「『わかりやすい』池上さん」が人気である理由もわかる。池上本は、居酒屋テーブル上の主導権争いにおける「攻略本」として参照されているのだ。はぁなるほど。

...いやでもこれでいいのかね。鈴木宗男氏上告棄却、近く収監、露骨な展開。

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